これは、俺が仕事で地方に出張した時の話だ。
ある夜、同僚のAと飲みに行った帰り、宿泊しているビジネスホテルの近くを歩いていた。地方都市の寂れた繁華街を抜けたとき、不意に妙な建物が目に入った。
それは、異様な雰囲気を放つ古びたビルだった。
ビルの入り口は錆びついたフェンスで塞がれ、「立入禁止」の看板がぶら下がっている。窓ガラスはほとんど割れ、壁面は黒ずんでいた。
「ここ、なんかヤバくね?」
Aが苦笑交じりに言う。地元の人に聞いたところ、かつては商業ビルだったが、ある事件を境に閉鎖され、そのまま放置されているらしい。
「何があったんですか?」
俺が尋ねると、地元の人は少し顔を曇らせた。
「……詳しくは知らないけど、ビルの最上階で誰かが飛び降りたって話があるよ。でも、その後もビルの中で何かが動く音がするとか、人影が見えるとか、そんな噂があってね」
俺たちはゾッとしたが、それ以上深く聞くのはやめて、その日はホテルに戻った。
その夜、深夜2時ごろだった。
ホテルの部屋でなんとなくスマホを見ていた俺は、ふと耳を疑った。
コツ…コツ…コツ…
廊下を誰かが歩く音。
こんな時間に? と思ったが、もしかしたら宿泊客がいるのかもしれない。
だが、次の瞬間、異変に気づいた。
「……ん?」
足音は俺の部屋の前で止まった。
しばらく沈黙。
そして、
コン…コン…
ノックの音。
俺は心臓が跳ね上がった。隣の部屋に泊まっているAなら、こんな時間に訪ねてくる理由がない。
それに——
ドアの下の隙間に、影がない。
恐る恐る覗き穴を見た。
——誰もいない。
俺は息を飲んだ。その瞬間——
「開けて」
耳元で囁き声がした。
気がつくと、俺は立ちすくんでいた。
誰かが、部屋の中にいる。
後ろを振り向くことができない。
「……おい、起きてるか?」
突然、スマホが鳴った。Aからだった。
震える手で電話を取ると、Aはこう言った。
「今、廊下にいるだろ?」
俺は凍りついた。
「は? 俺、部屋にいるぞ」
「……嘘だろ? さっき、お前が廊下を歩いてたのを見たんだよ。俺の部屋の前を通り過ぎて、そのままエレベーターの方に行った」
意味が分からない。
俺は部屋から一歩も出ていない。
「……それ、どっちの方向に行った?」
「ビルの方……」
電話を切ると、俺は震えながらドアを開けた。
廊下には誰もいない。
だが、床には濡れた足跡が残っていた。
ビルの入り口に向かって——。
翌日、Aと共にビルの前まで行ってみた。
フェンスの向こうには、昨日と変わらぬ廃墟がそびえている。
だが、俺たちはある異変に気づいた。
ビルの入り口に、濡れた足跡が続いていた。
「……昨日のやつ、ここに入ったのか?」
Aが青ざめた顔で呟いた。
俺は何かに呼ばれている気がした。
「お前、本当に昨夜は部屋にいたんだよな?」
Aが確認するように言う。
「当たり前だろ」
だが、その言葉を口にした瞬間、ゾクリと寒気が走った。
——本当に、俺は昨日、一歩も部屋から出ていないのか?
夢遊病のように歩き出していたのでは?
もしかしたら——
「……戻ろうぜ」
Aの声で、俺ははっとした。
それ以上、近づいてはいけない。
俺たちは無言のまま、その場を後にした。
それ以来、俺は出張であの町に行くことはない。
だが時々、思う。
あの夜、封鎖されたビルに入っていった“俺”は、一体誰だったのか?